魚庵 千畳敷の生い立ち
今から約80年前、当時石炭の積み出し港として活況を呈していた若松港で、
先々代「水上ツル」と先代「水上光司」がてんぷら屋台を引き始めたのが魚庵千畳敷の原点です。
この時、先代はわずか14歳でした。
終戦後、お店を開こうと金策に行った銀行から門前払いを食らって途方に暮れていたところ、
長年先代を応援してくれていた方に助けていただき、
念願の店舗「赤提灯」を持つことができました。
その後は堅実に売り上げを伸ばして財を蓄え、昭和44年「魚庵 千畳敷」を開業いたしました。
玄海国定公園に指定された千畳敷の岩盤に隣接したこの地は、当初ただの山でした。
電気も水道も通っていなかった山を少しづつ開拓し、先代自身が陣頭に立ち、
愛情をもって手を加えていきました。
こうして出来上がった魚庵千畳敷は、貧しく苦労を重ねた若かりし頃の憧れが、
まるでお屋敷に入っていくような長いアプローチと広い芝生のお庭に現れています。
先代が「赤提灯」のモチーフにしたのは長野旅行で見た合掌造りでした。
人工物と自然が織りなす日本の原風景を千畳敷に重ね、長い年月をかけて作り上げて来た庭と、
海に沈む夕日を眺めながら、四季折々の素材を使った料理をお楽しみいただけたら幸いです。
初代女将と女将
昭和14年 筑前若松で「魚庵 千畳敷」の原点となる天ぷら屋台「魚治(うおはる)」が営業を始めました。
街灯も信号も無い時代、暗い夜道に浮かび上がる「魚治」の灯す赤提灯の灯りは印象的で
当時のお客様はみな、「魚治」とは呼ばず「赤提灯」と呼んでいたそうです。
月日が流れ、若松の中心に店舗を持ったとき、皆様に親しまれた愛称の「赤提灯」に店名を変更しました。
今も親子3代でご利用されるお客様から、懐かしい昔話を聞かせていただきます。
ツルさんは、私らが飲んだり食べたりした方が儲かるのに
「今日はもうそのくらいで止めときんさい。飲み過ぎとるよ」
若かりし頃、持ち合わせが少なくお金が足りない時には
「支払いは次で良かばい。今度来るときに持って来なっせ」
お客様の思い出の一コマに「赤提灯」や「魚庵 千畳敷」のエピソードを加えていただけること、
誠に有難いことと感謝しております。
その会長が亡くなったのは、私が小学5年生の冬でした。
私は最後まで会長を「おばあちゃん」と呼んだことはありませんでした。
いつも「会長さん」でした。
まだ幼かった頃、会長と一緒に商店街を歩いていると
「こんにちは、今日は良か天気ですね」
「いつもありがとうございます」
と、すれ違う人に声をかけ、挨拶をします。
「会長さん、あの人知っとうと?」
と問うと
「若松の人は、みなさんお客さんったい。頭下げて挨拶する人を怒ったり
こずく人はおんしゃらんけん、きちんと頭下げて挨拶しなっせ」
と、教えられました。
口癖は
「商売人は、早飯、早ぐそ、早走り」
「損して得とりんしゃい」
「とにかく相手を大事にしなさい」
私と会長の関わりは、わずか11年。
まだまだたくさんのことを学びたかったと、当時を振り返りながら思います。
会長がこの時代に 生きていたら、私はどんなふうに注意され、教えてもらえたのか。
今はもう自分の心の内で問う以外ありませんが、
お店に立つときはいつも傍に会長を感じ、従業員と共に心を込めたおもてなしを心がけてまいります。
水上志乃
三笠宮寛仁親王殿下ご来店時の写真
1990年4月2日
2018年に閉園したスペースワールドのオープン視察に来られた際に、ご来店いただきました。
ご利用いただいたお部屋は、今は使用しておりませんが、
当時完成したばかりの「雀の宿」でした。
このお部屋は最も離れた場所にあり、竹林と一体化した非常に風情ある建物でした。
親王殿下ご来店前には、警護の方の視察があったり、来店中は蛇が出て大騒ぎになったりと、
警護の方々は色々とご苦労があったようです。
親王殿下には食事も景観も大変気に入っていただき、
予定の時間を超えて滞在され海岸の方まで散策にいかれたようです。
写真には、50年前に当店を創業した先代大将、女将、当時のスタッフたちが納まっています。
若松がまだまだ活気に溢れ、賑やかりし頃です。
30年前のことですが、世の中も街も大きく変わりました。